金容淳

김용순

金容淳

現職 党対南担当秘書、アジア・太平洋平和委員会委員長
生年月日1934年7月5日
出生地平安南道平原
勲章金日成勲章(82年4月)、金正日表彰(95年10月)
学歴
金日成総合大学卒業
モスクワ大学留学
経歴
1970年駐エジプト北朝鮮大使
1972年党国際部課長
1973年対外文化連絡委員会副委員長
1974年党国際部副部長
1979年6月党中央候補委員
1980年10月党中央委員、党国際部長
1984年1月党国際担当秘書・国際事業部長
1985年8月党国際事業部第1副部長に降格
1988年12月党国際部長
1989年11月最高人民会議外交委員会副委員長
1990年5月党国際担当秘書・国際事業部長
1992年4月最高人民会議外交委員長
1992年12月労働党政治局候補委員、党対南担当秘書
1993年4月最高人民会議統一政策委員長
1993年祖国平和統一委員会副委員長
1994年朝鮮アジア・太平洋平和委員会委員長
1998年祖国平和統一委員会委員長
2001年3月逮捕・失脚?

金容淳北労働党秘書3月逮捕された

月間中央、2001年8月号

 2000年、歴史的な南北頂上会談を作り出すのに決定的に寄与した2人は、ソウルの林ドンウォン統一院長官と北朝鮮の金容淳労働党秘書である。その間、北朝鮮の対南政策を総括してきた金秘書が、2001年3月、北朝鮮当局に電撃連行され、調査を受けた事実を北朝鮮事情に精通したある外交消息筋が確認した。

 金秘書は、その後、金正日委員長の特別指示により、釈放されたというが、以前の威勢を回復できないでいる。金秘書の逮捕は、対南政策を巡った北朝鮮内部の深刻な保革葛藤が表面化している信号として解析されている。金正日のソウル答訪を控えて、南北関係は、一体どのように流れていくのだろうか。

 2001年3月14日午後8時。電力不足で真っ暗な平壌市北部峨嵋山通りにベンツ300 2台がヘッドライトを点けて、走っていた。216-5810番号板を付着した黒色のベンツは、右手に金日成大学と国家保衛部の建物を通り過ぎ、凱旋門側に方向を変えた。凱旋門を通過し、七星門通りを経て、万寿通りに入るや、急に街頭が明るくなった。

 北朝鮮当局が金日成広場と高麗ホテル、外交団地のような外国人が密集している平壌市中区に限り、平壌火力発電所の電力を特線割当するためである。特に、外交団地内にあるドイツ大使館は、自主発電機を稼動しており、その一帯は、更に明るく見えた。

 ベンツは、蒼光通りで再び左回転、普通門洞の円筒型アパートの前に止まった。ロシア大使館の向かい側に位置するこの30階建てのアパートには、労働党副部長級以上の幹部達が主として居住するところである。車を降りた4名の男は、エレベーターに乗った。エレベーターは、23階に止まっていた。既に事前にアパートの号数を把握していたようで、濃い藍色の人民服姿の若い男は、急ぎ足であるアパートに向かった。ある男が門を乱暴に叩いた。

 暫く人気が現れた後、背が高い壮年の男が門を開けた。寝巻き姿だった。4名の男の内、先任者と見られる1人の男が出て、「保衛部から来た。今、一緒に来なさい。服を着替えて出ろ」と手短に語った。若い男の左側の胸には、中央党指導員級以上の幹部だけが付着できる党旗像模様の金日成バッジが付いていた。

 極めて短い瞬間だったが、壮年の男は、瞬く間に事態を把握した。沈着ににして、「来るべきときが来たか」という表情だった。壮年の男は、「分かった」と語り、人民服に着替えて出た。心配そうな表情で付いて来た夫人に、男は、「問題ない。暫く、出て行く」と安心させた後、家を出た。暫く後、壮年の男を乗せた2台のベンツは、ヘッドライトを点けたまま、北側に猛烈な速度で走り始めた。ベンツの後席に堅い表情で座っていた壮年の男は、朝鮮民主主義人民共和国統一戦線事業担当金容淳秘書だった。


■金容淳が逮捕された。

 北朝鮮の対南担当秘書金容淳が逮捕された。平壌事情に精通したある外交消息筋は、記者に「金容淳秘書が去る3月逮捕され、調査を受けた」と明らかにした。この消息筋によれば、金容淳は、去る3月14日、平壌市中区域普通門洞の円形アパートで休息を取っていたところ、逮捕された。金容淳を逮捕した国家安全保衛部は、金容淳を某所に連行、1週間に渡り、思想検討と共に、彼が遂行した
対南政策検討を徹底して実施したと伝えられた。この調査過程において、金容淳が拷問等、過酷行為を受けたか否かは知られていない。

 金容淳は、調査過程を通して、「数種の釈然としない点」が摘発されたが、金正日国防委員長の特別指示に従い釈放された。3月24日頃、金容淳は、辛うじて現業に復帰した。しかし、金容淳は、まだ謹慎中であり、金正日国防委員長の現地指導に随行できないでいる。この文の導入部は、金容淳の逮捕をドラマ化(Dramatize)してみたものである。

◆金容淳とは何者なのか?

 北朝鮮の金容淳秘書は、昨年6月、南北頂上会談当時、金正日国防委員長の直ぐ横に付いていた人物で、我々にも馴染みの顔である。朝鮮アジア太平洋平和委員会(ア太平和委)委員長兼労働党中央委員会秘書という長い肩書きを持った金容淳は、対南事業を総括する金正日委員長の最側近中の1人である。

 金容淳は、1934年7月、平安南道平原郡(会寧出生説もある)で生まれ、金日成総合大学法学部国際関係科で勉強したが、卒業班だった1960年、国際関係科が現在の国際関係大学に独立し、この大学の1期卒業生となった。彼が金総秘書の遠戚だとか、万景台革命学院卒業、モスクワに留学したという一部の主張は、事実ではないようである。彼が国際部門の済々たる実力者達を差し置いて、1974年、国際事業部副部長に電撃抜擢されたこと(党中央委員は、80年10月)や、1984年、国際秘書・国際事業部長に急浮上したのは、金正日と彼の妹金慶姫の後光に力を得たものと観測される。

 1972年当時頃、労働党国際部長だった金永南(現最高人民会議常任委員長)により、党国際部課長に席を移った。このときから、彼は、金正日の妹で、当時党国際部指導員だった金慶姫と親しくし始め、対外業務を扱う党僚として、本格的な活動に入った。また、1974年には、国際部副部長に登用され、金慶姫(当時、国際部課長)を直属部下に置き、彼女との因縁を維持した。金容淳は、続けて、1980年、党国際部長、84年1月、党国際担当秘書に昇進し、党中央委候補委員(79.6)に、中央委委員(80.10)に選出されもした。1985年8月、党国際事業部第1副部長に降格したが、88年12月、再び党国際部長に登った。

 1989年11月には、最高人民会議外交委員会副委員長(兼任)、90年5月には、党国際担当秘書に再昇進し、元来の地位を取り戻した。彼は、1992年4月、ホ・タムの死亡(91年5月)以来空席だった最高人民会議外交委員長に選出され、ベテラン外交テクノクラート金永南と共に、北朝鮮外交を率いてきた。彼は、1990年9月、日本自民党の金丸信と日朝関係に関する共同宣言を引き出すのに、産婆役を果たし、91年2月、日本を公式訪問し、日朝修交会談を本格化し、対外的に有名税を払い始めた。

 彼の協商能力と外交的手腕は、1992年1月、米国を訪問し、アナルド・ケント国務省政務担当次官と米朝修交論議を行ったことでも確認されている。彼は、北朝鮮指導者としては、見るのが稀な洗練されたマナーと話術で耳目を引き付けた。彼は、1992年12月、党政治局候補委員に抜擢され、最高権府に進入したが、その後、候補委員から外れた(93年初め観測)。彼は、対南事業を担当して以来、動静が良くつかめていない。1993年4月、最高人民会議統一政策委員長を担当し、党・議会・祖平統(副委員長)3部門において、対南事業を管掌してきた。

 金容淳は、1994年7月、急に作られたアジア・太平洋平和委員会委員長を担当し、対南・対日・対米関係を総括し、役割が更に大きくなった。彼は、党国際部の直系であるソン・ホキョンと対日外交の主役李チョンヒョク、対南事業の専門家として米協商に出ていたチョン・グムチョルをア・太平和委副委員長に擁している。

 金容淳は、1994年6月28日、南北頂上会談のための予備会談北側首席代表として、板門店で李ホング副総理と協商に入り、粘り強い協商家の気質を見せた。脱北者達によれば、金容淳は、平壌の権力層で歌と踊り、そして酒を良く飲む3拍子を備えた人物としての定評もある。

◆ピョンヤンゴロジー(Pyongyangology)

 金容淳秘書逮捕に象徴される平壌内部の保革葛藤は、核開発と共に、北朝鮮の最も興味深く、隠密なイッシューに該当する。金容淳逮捕は、現在、平壌において進行中である保革葛藤の結論ではなく、緒論なのかも知れない。従って、金容淳逮捕のニュースは、気がかりを晴らすものではなく、むしろ次のような一連の疑問を増幅させる。金容淳の逮捕は、個人非理次元で起こったのでなければ、政策を巡る平壌権力内部葛藤の結果物なのか?

 金容淳逮捕を主導した勢力と人物は、誰なのか?金正日は、自身の対南担当秘書である金容淳の逮捕にいかなる立場を取ったのか?金正日は、現在、金容淳とどの程度の距離を置いているのか?現在、金容淳は、どの程度、身動きの幅を確保しているのか?韓国政府は、金容淳逮捕をいつ知り、いかなる措置を取ったのか?金容淳の逮捕は、南北和解局面と北朝鮮の対外開放の終末を意味するのか?

 金容淳逮捕を巡るこのような一連の質問は、北朝鮮観測通達が常に直面する「大きな質問−小さな情報」のジレンマに属する問題である。簡単に言えば、気がかりなことは、非常に多いが、いざはっきりと答えてくれる具体的な情報量は、貧弱なものでしかない。記者は、このような一連の情報のギャップをピョンヤンゴロジー(Pyongyangology)を活用して、答えようと思う。

 60〜80年代、米ソ冷戦が猛威を振るった時、CIAを含むワシントンのソ連分析家達は、クレムリノロジー(Kremlinology)というものを考案しだした。クレムリノロジーは、プラウダ・イズベスチヤ・タス通信のようなソ連の公式言論媒体に登場する記事は勿論、新聞紙面に登場する共産党幹部写真の角度と大きさ、そしてその掲載頻度を几帳面に分析することによって、クレムリン内で進行する権力版図の動向を追跡する技法である。ピョンヤンゴロジーも、これと類似した技法である。

 権力の奈落に落ちた金容淳、南北頂上会談を通して、ソウルでも親しい顔となった金容淳秘書が権力の頂点にあったときは、昨年の秋夕だった。平壌頂上会談の3ヵ月後である昨年9月11日、金容淳は、高麗航空特別機便で金浦空港に降り立った。北朝鮮軍部の朴在京人民軍大将を同行した金容淳は、新羅ホテルから秋夕の贈物として送った300名分の<?>3tを伝達した。

 金容淳は、新羅ホテルで韓国の太陽政策の設計者である林ドンウォン当時の国情院長と金正日国防委員長のソウル答訪を含む南北関係の全般的な現案を論議した。2時間に及ぶこの会同を通して、金秘書と林院長は、金委員長のソウル答訪時期を来年春(2001年)にすることにした。引き続き、両者は、ホットライン仮設等、軍事的信頼構築措置を協議する国防長官会談を3次長官級会談(9月27〜30日)以前に推進することにした。また、離散家族問題と関連して、離散家族面会所設置及び運営法案、離散家族交換訪問と書信交換等を論議する2次赤十字会談を金剛山で開くことにした。

 南北両者は、これと共に、1、2次長官級会談の合意事案を予定通りに推進し、京義線復元と経協の制度的装置の準備のための実務接触等の日程も、3次長官級会談前に推進することで合意した。林院長と会同を終えた金容淳は、空軍特別ヘリで9月12〜13日、済州島漢拏山と浦項製鉄、慶州遺跡地等を観光した後、13日夕方、宿舎であるソウル新羅ホテルに戻り、14日には、青瓦台を礼訪、金大中大統領に金正日委員長のメッセージを伝達した。要するに、このときは、金容淳の全盛期だった。

 それから10ヵ月後である今日、金容淳は、北朝鮮権力の奈落に落ちている。北朝鮮人事が持つ権力の大きさを伺える重要な目盛りは、現地指導随行と公式活動である。特に、「革命の首脳」を自任する金正日の横にぴったりくっ付いて立ち、「指導者同志」の言葉を政策に反映することは、最も重要な政治行事である。

 金容淳は、年末までを見ても、金正日の横にぴったり密着していた。昨年6月14日、平壌市百貨院迎賓館で開かれた金大中大統領と金委員長が2次頂上会談に先立ち歓談を行う席と6.5共同宣言を署名する席に、金秘書だけが唯一、金委員長の横に陪席した。金委員長は、金大統領夫妻と写真撮影後、随行員達と記念撮影時、多情な語調で「容淳秘書、どこにいる?」と呼び、格別な愛情を表しもした。また、彼は、昨年9月1日、金委員長に単独随行し、2次南北長官級会談南側首席代表である朴チェギュ統一部長官と咸南東海岸地区招待所で会い、これに先立ち、6月、金委員長が鄭ジュヨン前現代グループ名誉会長、在米同胞言論人文ミョンジャ氏、8月、チョン・モンホン現代アサン理事会議長と会う席に全て陪席した。

 彼は、この外にも、去る5月、金委員長の中国訪問時、胡錦濤中国国家副主席の歓迎宴会において、金委員長を代理して答辞を行いもした。しかし、今年に入り、金容淳の金正日随行回数は勿論、公式活動も指で数える程度である。彼は、去る6月14日、平壌人民文化会館で開かれた南北共同宣言発表1周年記念平壌市報告会に参席した後、姿を暗ました。

 統一部情報分析室の資料を根拠に、金正日の随行回数が減った人物は、△金容淳党秘書(昨年:16→今年:1)、△崔チュンファン党副部長(9→0)、△金英春軍総参謀長(11→8)、△金鎰[吉吉]人民武力相(10→7)等である。この5名の中で、金英春と金鎰[吉吉]の随行頻度現象は、そんなに大きくはない。また、崔チュンファンの随行現象も、人事異動による自然な現象である。しかし、金容淳の随行頻度数急減は、納得が難しい。

 特に、金正日が去る7月8日、金日成主席7周忌を迎え、錦繍山記念宮殿を参拝したときも、金容淳が随行員名簿から外れたのは、皆の頭を斜めに傾けさせる題目である。何人でもなく、金主席の7周忌に金容淳の名前が登場しなかったのは、彼の身辺に相当な変化が発生したことを暗示する題目である。セチョン研究所の李チョンソク博士も、「金容淳秘書に対する金正日委員長の信任が弱化したの
は、間違いない」と語った。

◆平壌の保革葛藤

 金容淳逮捕の背景と関連して、1つ念頭に置かなければならないのは、事件発生のタイミングである。金容淳が逮捕された3月14日は、金秘書を中心とする平壌の対外協商派には、最悪の状況が造成されていた時点だった。先ず、1週間前である3月7日、ワシントンでは、韓国の金大中大統領と米国のブッシュ大統領が、ホワイトハウスで米韓頂上会談を行った。しかし、頂上会談の結果は、平壌
としては極めて不満足なものだった。

 先ず、ブッシュ大統領の有名な「懐疑感(Skepticism)発言を通して、彼が金正日と北朝鮮体制に極めて強い不信と懐疑感を持っていることが立証された。また、金大統領自身も、「検証と相互主義」を重ねて強調する弾みに、「自主的な金大中」を期待していた平壌としては、失望感が一層増幅したのだろう。30年を超えて北朝鮮問題を扱ってきた金ダルスル(前南北会談事務局専門委員)氏は、「米朝関係と南北関係を含めて、平壌内部において政策失敗を巡り、その責任問題が膨らんだ公算が大きい」と語った。その責任追及の矛先は、自然と対外協商派の先頭金容淳に向かったのだろう。

 韓国政治の特徴は、政策を巡る葛藤が様々な個人又は部署間の力比べの様相を帯びて、膨らむことである。過去1993〜97年の金永三政府時代、対北政策巡る葛藤も、訓令造作という理由を中心院、ハン・ワンサン(統一部長官)−李ドンボク(安企部長特補)の個人的葛藤に変化した事例がある。万一、このような韓国政治の特徴を平壌に適用すれば、金容淳の逮捕も、対南政策を巡る対南部署内部の葛藤又は対外協商派である金容淳と軍部勢力間の葛藤の様相を帯びて、展開した可能性がある。このような脈絡において、最も嫌疑があるのは、金容淳と姜グァンジュ(労働党対外連絡部長)間の葛藤の可能性である。

■金容淳対姜グァンジュ

 姜柱日という仮名で長い間活躍してきた姜グァンジュは、統戦部の指導員、副課長、課長を順番に踏み、統戦部第1副部長まで上った骨髄対南事業通である。特に、彼は、在日朝総連を担当する人物で、朝総連と平壌を連結するパイプラインである。問題は、過去20年間、対南革命のため、対南浸透と統一戦線事業を行ってきた骨髄保守派である姜グァンジュの目に金容淳の対南接近形態が<?>公算が大きい。特に、金大統領は、平壌頂上会談以来、「北朝鮮が駐韓米軍、保安法、労働党規約を譲歩した」とひっきりなしに語ってきた。セチョン研究所の李チョンソク博士は、「北朝鮮としては、この題目が相当に気分悪いだろう」と指摘した。

 更に、金容淳は、元来、対南部署出身ではなく、党国際部所属である。しかし、1993年4月、最高人民会議統一政策委員長を担当し、党・議会・祖平統(副委員長)の3部分で、対南事業を管掌してきた。我が国で言えば、外交部と国会統一外交委員長を経て、国情院長に就任した計算である。従って、姜グァンジュを始めとする骨髄対南事業通と金容淳間の関係は、「水と油」であると言える。

◆金容淳は、北朝鮮の財閥

 従って、平素、金容淳の対南政策に対して、内心「あいつでなければ」としていた姜グァンジュを始めとする対南部署の強硬派が米韓頂上会談を契機に、金容淳の足首を引っ掛けた公算がある。

 「金」が金容淳逮捕のきっかけとなったのかも知れない。1998年に始まった金剛山観光のおかげで、金容淳は、北朝鮮で最も多い外貨を稼ぎ出す「財閥」のような存在だった。

 現代は、金剛山観光代金を金容淳のア太委員会に送金した。毎月1,200万ドルずつぺこぺこ支払う現代の対北送金は、北朝鮮最大のドル箱だった。それまで、北朝鮮の最大外貨所得源は、繊維類だった。北朝鮮は、1999年、1億3,000万ドル相当の繊維類を輸出した。

 しかし、大韓貿易振興公社(KOTRA)北韓室の推定によれば、繊維輸出で北朝鮮が手に入れた実勢額は、500万〜600万ドルに過ぎない。採算性と輸出マージンが無茶苦茶なためである。これに比べ、金剛山観光は、「金の卵を産むガチョウ」に相違ない。原資材を入れなくても、年間1億4,400万ドルを稼ぎ出すことができた。従って、反対派は、金容淳と結び付けられた「まぶし粉」問題を持ち出したと言える。

 推定ではあるが、金容淳は、反対派の「まぶし粉攻勢」を成功的に避けたようである。金容淳が金正日の現地指導に随行していないが、時折公式活動は行っているためである。例えば、金容淳は、去る6月14日、平壌人民文化会館で開かれた「北南共同宣言発表1周年記念平壌市報告会」に参席した。これは、金容淳に対する逮捕と調査が比較的短い時期に進行し、彼が少なくとも「革命化」処罰位は、避けたことを意味する。駐韓米国大使館のある関係者も、「金容淳が監獄に行かなかったのは、明らかである」と語った。

 姜グァンジュ対南連絡部長等、3号庁舎の強硬派と軍部が連合戦線を形成して、金容淳を失脚させた可能性もある。金正日は、今年、現地指導に軍将星を同行する回数がぐんと増えた。金委員長の随行頻度が増えた人物は、△玄哲海大将(昨年13→今年32)、△朴在京大将(12→30)、△李ミョンス大将(7→20)、△チュ・キュチャン党軍需工業部第1副部長(0→12)、△李ヨンチョル党第1副部長
(4→23)、△張成沢党組織指導部第1副部長(15→22)等である。しかし、軍部指導者の中で、唯一、趙明録次帥(軍総政治局長)の随行頻度は(13→8)、減少した。特に、趙明録は、去る7月8日、北朝鮮軍部最高指導者が全員参席する金日成主席7周忌参拝名簿にも抜けている。

 趙明録は、昨年10月、ホワイトハウスを訪問し、クリントン大統領と面談した軍部実勢である。従って、全般的な軍部位相強化にも拘らず、趙明録のような金容淳の対外協商路線に同調していた人物の位相は、弱化しているのは、吟味すべき題目である。

■金正日の35日潜伏ミステリー

 北朝鮮権力層内部が金容淳逮捕を含めて、どの位大きな保革葛藤を経たのか、可否を伺うもう1つの物差しは、正に金正日の行跡である。金委員長は、去る3月14日から4月21日までの35日間、一切の公式活動を中断したまま潜伏した。この期間は、金容淳の逮捕時点(3月14日)と正確に一致する。多少の想像力を発揮すれば、金正日は、この期間中、金容淳逮捕の件は勿論、労働党・軍部・対南部署が全て網羅されて進行する政策再検討作業を腕を組んで見守ったのだろう。そして、その再検討作業が完了した時点で、金正日は、この論議を整理し、「綱領的指針」を与えたのだろう。また、金正日が金容淳に、「部分的な赦免」を行った可能性もある。

◆金容淳−林ドンウォンは、共同運命体

 過去30年間、南北関係の全ての風雪を見守ってきた金ダルスル氏は、「金容淳の没落を最も切なく見守った者は、林ドンウォン統一部長官だろう」と指摘した。多分、その言葉通りだろう。ソウルの林ドンウォン長官と平壌の金容淳秘書は、過去3年間、あらゆる紆余曲折を経て、昨年6月、南北頂上会談という歴史的イベントを演出するのに成功した。

 両者の関係は、あたかも野球の捕手と投手のような関係である。金容淳が平壌から「グー」とサインを送れば、林長官は、ソウルから「パー」という間柄である。南北関係は、今からである。ところが、林長官と共同運命体である金容淳がこのように没落した・・・。林長官は、一層金容淳が惜しかったのだろう。

 平壌のカウンターパート、金容淳を救い出すための林ドンウォン長官の努力は、熱心を超えて、壮絶な程度である。林長官は、先月、南北協力基金から680億ウォンを取り出して、肥料を北朝鮮に支援した。韓国は、24回に渡る輸送の果てに、ヨウ素肥料と複合肥料20万tを北朝鮮に伝達完了した。また、林長官は、世論と国会の大きな反発を押し切って、南北協力基金から900億ウォンを引き出し、金剛山観光を引き受ける観光工事支援を決定することもした。果たして、林ドンウォン長官が自身のカウンターパートである平壌の金容淳を救い出せるのか?

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最終更新日:2004/03/19

 

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